発酵でつながる、人・地球・微生物の幸せ
小倉ヒラク大地の力で醸す酒
森と水田から生まれる、日本の里山。その恵みでつくる日本酒は、和食の美意識の極みであると同時に、日本の各地方の生態系を守る存在である。
伝統的な日本酒の原料は、米と水、そして水田に棲む微生物。つまり里山にあるものだけでつくられる。しかし近代化に伴い、大量の酒を安定した質で供給するために、日本酒はここ数十年のあいだ工業製品のように製造されるようになった。有名な産地で栽培された米と、工業的に培養された微生物。原料がすぐ腐ってしまうワインと違い、長期保存できる米を原料とする強みを活かした結果、日本中どこの酒蔵も質の高い製品を醸せるようになった。だがその反面、その土地の自然を反映した「地酒」としての性格を失いかけているのも事実である。
一方で、工業化以前の製法を蘇らせた酒蔵が注目を集めている。自分たちの土地で栽培した米で仕込み、蔵に棲み着く微生物で醸す。主流の酒とは一線を画す、土の味を感じる力強い地酒の復権である。
発酵が醸す、酒と里山
重要になるのが「発酵」である。微生物が働くことで、原料にはない香りや味わいが醸し出される。
人口6,000人の町、千葉県神崎で350年の歴史を持つ寺田本家は、酒の工業化に反旗を翻した酒蔵の一つとして知られている。醸造家と微生物の共創による酒造りを追求し、より自然な酒とは何かを問い続けている。農薬や化学肥料を使わない地元の米を使い、蔵のなかに棲みつくコウジカビや酵母を使って、麹やアルコールをつくる。さらに野生の乳酸菌を呼び込むために米を手作業ですりつぶす際に、微生物たちに向かって唄う「酛摺り唄」の伝統を復活させた。徹頭徹尾その土地の自然にフォーカスし、醸造家自身もその土地の自然に一体化させてしまうのだ。まるでヨーグルトのような酸味と、米のジューシーさが際立つ寺田本家の酒は、飲むと身体の奥から生命力が湧き出てくるようだ。
福島県郡山市で300年余り酒造を営む仁井田本家は、発酵の概念を酒だけでなく地域全体に広げようとしている。
地元の米や、蔵に棲む酵母や乳酸菌を使って酒を醸すだけに留まらず、木製の仕込み桶は、酒を仕込むための水を生み出す自社敷地内の森から伐りだした杉や竹から作ったものを使っている。温暖湿潤で土地の栄養が豊かな日本では、里山を手入れするためには森から適切に木を伐りだす必要がある。森に光を入れるためにはスギを伐り、多様な樹木を生やすために竹を伐る。伝統的な日本酒の仕込み桶は、本体をスギで、本体を締めるベルト(タガ)を竹でつくる。酒造が営まれることで里山が手入れされていく、中世から続く日本の生態系保存の知恵を現代の文脈に蘇らせようとしている。
仁井田本家にとって、発酵とは酒を醸すだけではなく、自然と人が一体となって働くほどに生態系が豊かになっていく営みのすべてに関係してくるものなのだ。
発酵することは、生きているということ。仕込む年の気候や原料の具合、さらには微生物の働きのニュアンスによって味が変わっていく。ワインでは当然の、この「年による味の変化」を寺田本家と仁井田本家は日本酒の世界に復権させた。
身体と地球がつながる生態系の豊かさ
発酵はまた、人間の身体と地球の生態系をつなげる役割を担っている。
ここ十数年の間、腸内をはじめ人間の体内や表皮に棲みつく微生物の解析が可能になった。そこで明らかになったのは、一人の人間が100兆を超える微生物と共棲している驚くべき事実だ。この微生物の生態系が、人間の健康、さらにいえば精神状態をも左右している。人間にとって良い微生物=善玉菌が優勢になれば心身ともに調子が良くなり、害をなす菌=悪玉菌が優勢になるとトラブルが発生する。健全な微生物の生態系を維持する鍵となるのが、発酵である。日本の伝統的な発酵食品や飲料に含まれる植物由来の乳酸菌、大豆を発酵させる酵母や麹菌などは、体内の善玉菌をサポートし、免疫機能のバランスを調整する働きがある。
寺田本家や仁井田本家の取り組みは、酒造りを通して地域の生態系を豊かにすることを目指している。その土地に棲む発酵菌たちが働くことで、今度は私たちの身体の中の生態系が豊かになっていく。個人の幸せと、地球の生態系。どちらも豊かにしていくのが日本の発酵文化の育んできた伝統なのだ。
日本の発酵の土台となる稲作は、東アジア独自のサステナビリティを体現している。水を張り、虫や鳥、魚などさまざまな生物を呼び込んで有機物を土に戻す。その結果、一般的な作物のように連作障害が起きづらい農業が可能になる。例えばフィリピン、コルディレラの棚田は2000年以上も同じ土地で維持されてきた。日本にとって、農業も林業も大地からの一方的な収奪ではなく、本来は人間が恵みを頂くほどに、営みを続けるほどに生態系が豊かになっていくものだ。人間と微生物が共につくる「この年だけの楽しみ」を祝福したい。
発酵デザイナー。「見えない発酵菌たちのはたらきを、デザインを通して見えるようにする」ことを目指し、東京農業大学で研究生として発酵学を学んだ後、山梨県甲州市を拠点にワークショップ、イベント、展覧会などさまざまなプロジェクトを開催。2020年に下北沢に発酵専門店『発酵デパートメント』をオープン。著書に『手前みそのうた』『発酵文化人類学』『日本発酵紀行』『オッス!食国 美味しいにっぽん』など。